【 がんは病気なのか 】


 今回は、以前紹介したインド映画の『PK』が、宗教のタブーに切り込んだ勇気に敬意を表して、私も少し突っ込んだテーマを選んでみた。

まずは、ある80代の女性Aさんの実例からお伝えしよう。


 Aさんは以前から足にしびれ感があり、歩行が少し困難な状態であった。

どこに行っても何をやってもしびれが取れないし、病院では糖尿病のせいだと診断されたので、なかば諦めていた。

ところが、お友達からの紹介で当院で矯正を受けてからは、しびれ感がほとんど気にならないレベルまで低下し、歩行もかなりスムーズに運ぶようになった。

Aさんの足のしびれや歩行の不調は、糖尿病ではなく骨のズレが原因だったのだ。

その後も、腰やヒザなどに不具合が生じるたびに来院されていたが、あるときからピタリと顔を見せなくなった。

紹介者の話では、家族から、もっとちゃんとしたところで診てもらわなければダメだといわれて、有名な整形外科に通っているということだった。

だがその整形外科で、糖尿病には禁忌とされる薬を処方されたため、体調を大きく崩してしまった。

しかも、肝心の腰やヒザの痛みが、ますます悪化して苦しんでいた。

そのため困り果てたAさんは、紹介者を介して、また当院に来られたのである。

 
 しかし、久々にAさんの体を見た私は、愕然とした。

思わず、「なに、そのお腹」と口に出してしまったほどだ。

彼女のお腹は、まるで妊婦のように腫れ上がっていたのである。

確かにAさんは、以前から太り気味ではあったが、いわゆる贅肉とこの腫れは全く別物だ。

本人としては、症状があるのは腰やヒザであって、腹部には便秘以外に何もないという。

だが、腰やヒザの症状どころの話ではない。

自覚症状がなくても、今の彼女の体が、相当危険な状態であることは明らかだ。

そこで本人には、とにかくこの足で、どこでもいいから消化器科のある病院に行くようにと伝えた。

同行していたAさんの友人も、花山先生がそこまでいうのだから、絶対に行ったほうがいいと勧めてくれた。

ところが、あとで迎えに来た娘さんたちから、「病院に行くのは別に今日でなくてもいいじゃない」といわれて、Aさんはそのまま帰宅してしまったそうだ。

そして、数日後に近所の消化器科を受診したのだが、その病院では単なる便秘だと診断され、下剤を処方されて帰された。

それからさらに2、3日して、Aさんの容態は急変し、救急搬送された先の病院で、末期の膵臓がんであることが判明した。

そこで余命宣告も受けたが、間もなくしてAさんは亡くなった。

当院に再来院されてから、1ヶ月も経たない間の出来事である。


 さて、この話を聞いた人は、どのような感想を持つだろうか。

最も平均的な感想は、まめにがん検診を受けていれば死なずにすんだのに、というものだろう。

だがそれは、がん治療の現実を知らないワイドショー的な発想である。

実際、医師や身内のちぐはぐな対応はあったにしても、私はこれが、Aさんにとっては最善だったと思うのだ。

仮に、もっと早い段階でがんが見つかっていたとしても、今回よりも長く生きられた保証などどこにもない。

それどころか、早く見つかった分、肉体的にも精神的にも苦しむ期間が長かったはずである。

治療によっては、もっと早くに亡くなっていた可能性も高い。

しかしAさんの場合は、入院するまではがんによる苦しみなどなかったのだし、少々の不具合はあっても、介護されることもなく一人で暮らせていたのだ。

寝たきり10年が当たり前といわれる日本において、1ヶ月にも満たない入院生活で最期を迎えることができたのは、上出来の部類だろう。

 
 ここで問題になってくるのは、がんという病気をどう捉えるか、なのである。

がんが日本人の死因のトップに君臨するようになって久しいし、がんは地獄の苦しみ、などと聞けば、がんになるのは最も恐ろしいことだと考える人は多いだろう。

以前の私にとっても、がんはできるだけ避けたい病気であった。

また、がんは早期発見・早期治療をすれば助かるという話にも、当時は疑いを持っていなかった。

だからこそ、来院患者のがんを見落とすことがないように、全力を尽くして調べていたのである。

しかし、背骨のズレという現象を知れば知るほど、がんに対する考え方は変わ
っていった。

今では、積極的にがんを探すようなことはしない。

今回のAさんのように、平均寿命を超えようかというような、高齢者の場合はなおさらだ。


 ではなぜ、がんを探さなくなったのか。

それは、がんを早く見つけたからといって、今の病院でのがん治療が、本当に患者の利益につながっているのか、確信が持てないからだ。

そして何よりも、背骨のズレががんと深い関わりがあることがわかった以上、
がんに対する私のアプローチも変わった。

要は、今現在、がんがあろうがなかろうが、常に背骨のズレさえ矯正していれ
ばよいのである。


 また、がんに対するアプローチの変化とともに、がんに対する見方も大きく変わった。

がんがあることがそのまま死を意味するわけではないし、逆に、がんが治ることと生命が有限であることとは、全く関係がないのである。

例え今は助かっても、いずれ死ぬことには変わりはない。

こう言ってしまうと身も蓋もないが、この事実を覆い隠してみたところで、寿命が延びるわけではない。


 そもそも医学の世界では、「死は敗北である」と教育され、そこに力点を置いて病気を治療している。

だが、人は何らかの原因で必ず死ぬのだから、人の生死を勝ち負けで捉えれば、医学が勝利することはあり得ない。

つまり、必然であるはずの死を、敗北と捉えてしまうことが、病気という現象の本質を見失わせる最大の原因なのである。

歴史を見ても、健康と病気は、善悪、勝ち負け、浄・不浄、賞罰など、さまざまな対比で脚色がなされてきた。

そしてほとんどの場合、病気にはマイナスのイメージしかない。

けれども、がんの存在を考えるとき、生命にとっての病気という現象の位置づけを、新たに定義し直す必要がある気がするのだ。


 前回の当誌では、がんに対して内因性オピオイドによる鎮痛作用が働くのは、自己防御機能ではないかとお伝えした。

しかし、痛みというのは、本来なら体の異常を知らせるアラームであるはずだ。

では、がんに対して鎮痛作用が働くことは、異常があるのにアラームを止めることになってしまう。

これは、アラームが壊れているのだろうか。

それとも、体のなかでは、がんを異常だと捉えていないのだろうか。

もしかしてがんというのは、生命が有限であるために、生命の発生の時点からプログラムされているシステムの一つなのかもしれない。

そうであるなら、がんという現象を、病気と捉えること自体が間違っていることになる。


 実は、がんは単なる老化現象の一つではないのか。

われわれは、がんに対してもっと寛容になってもいいのではないか。

もちろん、若年のがんや特殊な条件下でのがんは除外するとしても、がんそのものは、われわれが恐れる相手でも戦うべき相手でもなく、人生の終末に向かってソフト・ランディングするために、上手につきあっていくべき対象なのかもしれないのだ。

すると、内因性オピオイドによる鎮痛作用も、人間が「安らかに死ぬ」ために組み込まれた、最善の防御機能だと考えることができる。
 
そして、この一連のシステムに是が非でも対抗しようとすることが、苦しみの原因ではないのか。

今の病院でのがん治療を見ていると、そう考えざるを得ないのである。

 

                             (花山水清)

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