【医療に対する思い込み】

メールマガジン月刊ハナヤマ通信 Vol.354 4/6/2016 

 

 以前の当メールマガジンは、「です・ます」調で書いていた。
それを途中から「である」調に替えてみたのだが、どなたかお気づきだっただろうか。

 

途中で替えたのは、科学の話なら「である」調が主流だと思ったからだ。
また、「です・ます」調だと、読み手からは自信なさげに受け取られる、と知り合いの作家から指摘されたことも、理由の一つだった。

 確かに、文体は断定的なほうが、頼もしく感じられるだろう。
医療に関しての文章なら、なおさらだ。
断定したほうが説得力が増し、信奉者が得やすいことも理解している。

 しかし、私が発信する目的は、問題提起なのである。
読み手に、この問題をいっしょに考えて、検証してもらうために書いているのだ。

 

そのため、「である」調の文体であっても、自ずと断定的な言い回しを避けることに変わりはない。
そして、最終的には、読み手に判断をゆだねるのだから、結局のところ、大多数の読者には、受けが悪くなるのは避けられないのである。

 発明王エジソンも、「人はどんな方法を用いてでも、思考という本当の労働を避けようとするものだ」、といっていたらしい。この言葉は、人間の心理の核心をついている。


だれでも、自分の頭で考えて判断するより、他人に決めてもらったほうが、数段、楽なのだ。
特に医療については、自分自身の体の問題であっても、医師に判断をゆだねたほうが、安心だと考える人が大多数だろう。

 

 だが、私が情報を発信するうえで、もっとも危惧しているのは、「自分は正しい」という思い込みの存在である。
必死に自分で、何度も検証したことであっても、人間である以上、そこには必ず思い込みがあるはずだ。
そのことで、情報の受け手に、不利益を与える危険性もある。
だからこそ、当誌の読者には、自分の頭で考えて、内容の是非を判断してもらいたい。

 この「自分は正しい」という思い込みは、夫婦ゲンカから国際紛争に至るまで、ありとあらゆるトラブルの元となっている。


実は、医学の歴史もまた、この思い込みの連続なのだ。
「こうすれば治る」「これこそが患者のため」「自分は正しい」、と思い込
んだ医師たちの手によって、どれだけの患者が被害に遭ってきたかは、ちょっと医学史をひもとけば、すぐにわかる。
いつの時代でも、治療という名のおぞましい行為や、殺戮が繰り返されてきたのだ。
そのようなことは、今の時代に起きるはずがない、などとだれがいえるだろう。
有史以来の医学の歴史をトータルで量ると、患者の利益と不利益のバランスは、どちらに傾くかわからないぐらいだ。

 先日、来院した70代の女性は、整形外科で「肩インピンジメント症候群」および「肩甲下筋損傷」だという診断を受けていた。


「肩インピンジメント症候群」とは、上腕をよく使うことによって、腱板(けんばん)が傷害されたり、骨棘(こっきょく)ができたりして、肩が痛み、肩関節の可動が阻害される、と考えられている疾患である。


そのため、彼女は、ヒアルロン酸や鎮痛剤による治療と、筋力をつけるため
のリハビリテーションを行っていた。ところが、その整形外科で治療を開始して、4ヶ月にもなるというのに、症状は一向に良くならない。


しかも、医師からは、痛みの原因となっている、骨棘を取り除く手術を勧められた。この方は、手術と聞いて不安になって、当院に来られたのだった。

 そこで、まずは頚椎のズレを戻すと、その場で肩の痛みはやわらぎ、動かしにくかった腕の可動域も、大幅に広がった。


次に胸椎のズレを戻すと、「肩甲下筋損傷」と診断されていた、肩甲骨周辺の症状も治まった。

 

やはり、いずれの症状も、原因は背骨のわずかなズレだったのだ。たったこれだけのことで、手術が不要になったのだから、良かったと思う。

 では、これは珍しい症例かというと、そうではない。
私は今までにも、骨棘や異所性骨化が原因だとされる、さまざまな症状を数多く見てきている。そのほとんどが整形外科での診断とは違って、背骨のズレが原因であった。もちろん、彼女の場合も、骨棘と症状とは、全く関係がなかったのである。

 同様の話は、過去の当誌や拙著では、何度も取り上げてきたので、読者にとってはおなじみのはずだ。だが、いまだに一般常識にはなっていない。

 

そのため、単なる背骨のズレによる症状で、今までいったいどれぐらいの人が、ムダな投薬や手術を受けてきたことだろう。

 

 けれども、これは整形外科だけに限った話ではない。また、日本だけの問題でもない。現在の検査・診断・治療の医学的手法は、本当に患者に対して有益なのか。ひょっとすると、世界中で、とんでもない間違いを、犯し続けているのかもしれないのだ。

 歴史学者デイヴィッド・ウートン(David Wootton 1952-)も、「2400年
の間、患者は医師が有益なことをしていると信じてきた。しかし、2300年の間、それは間違いだった」と指摘している。


2400年前とは、医聖ヒポクラテスの時代のことであり、2300年前とは、フレミングがペニシリンを発見した頃を指すのだろう。
確かに、この100年の間に、医学は飛躍的な進歩を遂げたかに見える。
しかし、その進歩も、医学が科学に寄り添うことで、歩調が合って見えるにすぎない。
実際に進歩したのは、機械工学であり、遺伝子工学であり、生物化学なのである。
医学は、それらの科学的手法を身にまとっただけで、医学そのものの中身は、何も変わっていないのではないか。

 

 医学が進歩しているというのは、医者だけの思い込みだけではない。
患者もまた、最先端医療は、最善の医療だと思い込んでいる。
だが、最先端だからといって、それが個々の患者の利益につながる保証など、どこにもない。
逆に、かつて最先端と称して、散々脚光を浴びていた医療が、実際には、医学史上に汚点を残しただけ、ということも多々ある。
だからといって、私は決して、古い医学を信奉しているわけではない。
医学というのは、新しかろうが古かろうが、病気を治せなければ、全く価値はない。
治らないのであれば、進歩などという言葉は、気休めにもならない。
まして、患者に被害を与えるようでは、論外だと思う。

 私も、進歩は正しいことだと思いたいが、正しいと思うと、思い込みは強くなる。また、正しさの基準は時代に依存するため、正しさが「正しく」評価されるには、時間が必要だ。


実は、ウートンほどの人でも、「現在に至る100年は、医療は患者に有益なことを行ってきた」と考えているのだから、まだ、思い込みから抜け出せていないことがわかる。


思い込みによる医療が、今現在もどれほど間違いを繰り返していようと、同時代を生きている人間が、正しく評価するのは難しいということだ。
その難しさこそが思い込みの思い込みたる所以であり、怖さだろう。


これからまた100年経ったとき、100年後の歴史学者が、「この2500年のう
ち2400年は間違っていた」、と評価しそうな気がする。
                             (花山 水清)

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