私は美術家である。
アーティストと表現することもあるが、自分では美術家だと思っている。
美術家の目的は、自然のなかから美を見つけ出し、それを切り取ることである。
自然から美を見つけること自体はむずかしいことではない。
神が作った自然のなかに、美しくないものなど存在しないからだ。
逆に、美とかけ離れたものを探すとしたら、人間の頭のなかか人間が作ったものぐらいだろう。
しかし美術家というのは、なまじ美を追求するあまり、自分の頭のなかの美しくない部分ばかりが際立ってくる。
以前の私も、美術家として大きな間違いを犯していた。
自然のなかから美を切り取るどころか、過去にだれかが見つけた美を寄せ集めて、借り物で自分の美の世界を作り上げようとしていたのだ。
そのような偽りの美術には、感動も喜びもあるはずがない。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、「画家は自然以外のものを手本に選べば、いたずらに自分を疲労させる」といった。
彼のいう通り、あるのは苦しみだけだった。
美術家であろうとすれば、そんなウソを生涯つき通すしかない。
そのため、私の作品には常に後ろめたさがつきまとっていた。
美術の世界の怖いところは、そのウソを自分以外はだれにも見抜けないことなのだ。
実はほとんどの美術家は本人が意識するしないにかかわらず、私と同じ苦しみを味わっている。
ピカソやロダンほどの天才でも、やはり似たような経験をしていたはずだ。
皮肉なことに、美術は決して美術家を救ってはくれない。
だから美術家は、美術の世界ばかりか、現実の世界から逃げ出してしまう者も多いのである。
しかし私は、人体の「アシンメトリ現象」の発見を機に、自分にも世間にもウソをつかなくてすむようになった。
「アシンメトリ現象」の研究は、私にとって心底没頭できる美の探究なのである。
おかげで偽りの美術の呪縛からは完全に解放された。
美術家として評価されるかどうかは別として、美術家であろうとする自分を、今では誇りに思えるのである。
そして今、美術の世界から医学の世界を眺めるようになってみると、そこにはかつての私と同じ表情を隠し持った人たちが大勢いる。
彼らもまた、苦しみのなかにいるのである。