メールマガジン「月刊ハナヤマ通信」393号 2019/07 改訂2020/09/25
私が初めて買った詩集はゲーテだった。
その本は今でも手許にある。
あれから半世紀も経つというのに、未だにその内容を理解するには至っていない。
後になって読んだ『ファウスト』にしても、私には何の感慨も浮かばなかった。
翻訳の問題だろうか。
いや、たとえ原文で読めたところで、私にはゲーテを理解することなどできないのだろう。
自分の文学的素養のなさとともに、ゲーテに対してはそんな諦めにも似た感覚があった。
ところがあるときから、ゲーテと私は急接近した。
彼の思考や彼が目指していたものが、私の頭のなかで形をもって浮かび上がるようになったのだ。
ゲーテといえば、一般的には作家や詩人として認知されている。
だから、彼が残した自然科学に対する業績はあまり注目されることがない。
美術界の人間はゲーテの色彩学までなら知っているが、彼の形態学の研究となると、その存在を知る人の数は極端に限られたものになる。
実は私が考案した療法「モルフォセラピー」は、このゲーテの形態学(モルフォロジー)から名付けたものなのだ。
形態学とは、生物をその「すがたかたち」つまり形態を通して研究する学問である。
形態はドイツ語ではゲシュタルト、ゲシュタルトとは生きて動いているものという意味だ。
要するに形態学とは、動的に変化する形から、生き物の存在の本質を探る学問だといえる。
ゲーテの創設した形態学を理解するには、解剖学者の三木成夫の記述が参考になるはずだ。
自分はゲーテのファンではないといいながらも、三木の「生命形態学」の底流には、ゲーテの形態学がしっかりと横たわっている。
そして、人間の「すがたかたち」の学問体系の基礎を確立したのは、ゲーテの形態学だと評価しているのだ。
いかんせん三木の記述はたいへん込み入っていて、わかりにくいのが難点である。
だが彼の研究内容の独自性は他に類を見ないので、可能な限りそのままの形で引用しておきたい。
「ゲーテをして『生の根本原理』とまでいわしめた、あの蔓が描き出すらせん模様は、いまや宇宙の生きた象形文字としてわれわれの前に姿を現す」
このように、らせんが宇宙の成り立ちから始まる全ての根原となることを、三木はゲーテ以上に詩的な表現で説いている。
私がゲーテの形態学で一番興味をそそられるのが、この「らせんが生の根本原理だ」という点だ。
人類は高度に進化する段階で対称性を獲得してきた。
しかし、らせんというのはその対称性が破れた状態である。
私が発見した人体の「アシンメトリ現象」は、平面で捉えると左右の非対称性だが、立体として見れば「らせん現象」なのだ。
では人体にとって「らせん現象」は何を意味するのだろうか。
そのことを私はずっと考えてきた。ゲーテも私も、ともにらせんという現象に魅入られてしまったのである。
しかしこの現象が多くの疾患と連動している以上、その意味を知ることは、私たちだけでなく人類にとっても極めて重要であるはずだ。
そしてこの疑問に10年以上も向かい続けてきた結果、ようやく三木の説くゲーテの形態学のなかにその答えを見出すことができた。
人体におけるらせんといえば、DNAの左巻きのらせん構造が浮かぶだろう。
次に思い出されるのが出産である。生まれいづるとき、胎児はらせんを描いて産道を通り抜けるという。
そのらせんの方向が一定なのかも気になるところだ。
そこで、ある産婦人科医に出産時のらせんは左回転か右回転かと尋ねたことがある。
答えは、
「(出産に立ち会っているときは)忙しくてそんなことじっくり観察している暇などない!」
というものだった。
三木もその著書『胎児の世界』のなかで、出産を目にしたときの体験を語っている。
「あたり一面に羊水がとび散る。(中略)次の瞬間、頭のつむじをなぞるかのように赤ん坊の大きなからだがらせんを描いてとび出してくる」
このあと彼は、赤ん坊のつむじと出産時の動きとは同じ方向のらせんであったと書いているのだ。
それなら一歩進めて、それが左右どちらに巻いたらせんだったのかも確かめておいてほしかった。
また彼は論文(※1)のなかで、「胎児のへその緒は発生学的な理由で左巻きになっている」とも書いていた。
へその緒が左巻きというのは通説であるらしいが、私は決まっていないと書いてある本も読んだことがある。
だが、仮にへその緒が左巻きだと決まっているものなら、分娩時のらせんの方向が決まっていても不思議ではないだろう。
へその緒といえば、胎児の首や体にへその緒が巻き付いてしまう臍帯巻絡(さいたいけんらく)という現象もある。
へその緒が長過ぎたり、胎児の過度な運動によって生じるトラブルだと考えられているが、臍帯巻絡そのものは決して稀なことではない。
「アシンメトリ現象」は、体が上体に向かって左巻き(反時計回り)のらせんを描く現象であるから、母体にこのらせんの力が強く働いて、胎児やへその緒の回転に影響することで、臍帯巻絡を引き起こす可能性もあるかもしれない。
さらに三木の研究のなかには、消化管発生と左右の形成の説明(※2)もあった。
人間の消化管は、口から肛門までが一本の管でできている。
しかしなぜか、最初は左巻きのらせんを描き、後に右巻きのらせんへと反転すると決まっているそうだ。
すなわち口から入った食物は、左巻きから右巻きへとらせんを描きながら消化管を通過することによって、その姿を栄養物から排泄物へと変化させていくのである。
このしくみは、「アシンメトリ現象」のもつらせんの意味を考えるうえで、大きなヒントとなった。
生命発生の根原であるらせんは、ある時点まで到達するとそこから反転して終息へと向かう。この反転現象こそが「アシンメトリ現象」ではないのか。
ゲーテの著書(※2)のなかにも、
「発芽によるこの生長は、完全な〔高等〕植物においては無限に続くことはなく、段階を追って頂点に達し、いわばその力の反対方向での終結点において、生長とは様相を異にする種子による生殖を生み出す」
という記述がある。
すると、人間の生命を生から死へと俯瞰するとき、「アシンメトリ現象」に見られるさまざまな形態の変化は、生長から終結点へと向かう姿、つまり死へのメタモルフォーゼだと見ることができる。
消化管の中をらせんを描いて通過する食物と同様、われわれ人間もらせんが反転する段階を経て、終息に向かうものなのだ。
生命とはそのようにプログラムされている。宇宙もまたかくのごとし。
そう考えれば、「アシンメトリ現象」は決して特異的な異常などではなく、われわれの生命というシステムにあらかじめプログラムされた、一つのプロセスに過ぎないことになる。
この結論は、ある意味、遺伝的情報を含んだ前成説的な考え方ともいえる。
個体発生における前成説とは、卵子や精子のなかにすでに小人間がいて、それが成長していくという古くからある考え方だ。
この前成説に対して、現代の発生学的な考え方は後成説と表現され、前成説は遺伝情報の引き継ぎという形で残るのみである。
ゲーテはカントの影響で後成説に傾いていたことが知られているが、もし彼が「アシンメトリ現象」が描くらせんの存在を知ったならば、改めて前成説的な考え方に立ち返ったかもしれない。
ゲーテの形態学に「アシンメトリ現象」という終息のプロセスを組み込むことによって初めて、らせんによる発生から始まる生命のストーリーが完成する。
そうすることでやっと、ゲーテが生涯をかけた生命の根原への探究が完結するのである。
(花山 水清)
※1)三木成夫著『生命形態の自然誌1』第一巻解剖学論集 p.129
彼は「ヒトの胎児では、卵黄腸管は十二指腸空腸曲と左結腸曲の中間に左縄の形で形成される」と述べたうえで、へその緒のねじれとの関係についても考察を試みている。
※2)三木成夫著『生命形態の自然誌1』第一巻解剖学論集 p.115
「ヒトの腸管の発生は胆管開口部を支点にして『左巻き』に、そして卵黄腸管開口部を支点にして『右巻き』に形成される」
※3)ゲーテ著『自然と象徴』p171「植物生理学の予備研究――生理学の概念」
■形態や感覚などに見られる「アシンメトリ現象」の特徴50