メールマガジン「月刊ハナヤマ通信」392号 2019/06
背骨のズレは腰痛の原因になるだけでなく、頭痛やひざ痛など、さまざまな疾患を引き起こしている。
背骨のズレが、病因(何らかの疾患の原因)になるという考え方は、古代ギリシアの医聖ヒポクラテスの時代から一般的だった。
ところが今の医学の教科書には、背骨のズレについての記述はない。
まして、背骨のズレには発痛作用ばかりか、鎮痛作用まであること、そのそれぞれが、疾患の成り立ちまで左右していることなど、だれにも知られていない。
その結果、背骨のズレが関わるあらゆる疾患において、まちがった常識のもとに、診断や治療がおこなわれているのである。
例えば、腰痛というごく身近な疾患がある。
腰痛は、腰椎がズレて知覚神経を刺激することで痛みとなる。
これはいたって単純なメカニズムだ。
ところが背骨のズレという現象があることを認識していなければ、どんなに最先端の検査技術を駆使したところで、腰痛の原因に到達することはない。
原因がわからないから治せない。
だから整形外科では、腰痛の8割は精神的ストレスが原因で、脳が勝手に痛みを感じているだけだと考えるようになった。
ひどい症状で病院に来た患者に向かって、
「腰に問題もないのに、痛いと思い込んでいるだけだ」
「考え方がネガティブだからだ」
「クヨクヨするからストレスが溜まって腰痛になるのだ」
などというのである。
だが、それでは原因と結果が逆だろう。
異常なことというのは、だれも異常だと思わないところに異常性がある。
精神的ストレスが腰痛の原因だなどと考えるようでは、明らかに生気論に陥っている。
これは現代医学としては、かなり異常なことなのだ。
生気論とは、生命に対する考え方の一つである。
古くは、アリストテレスの「人間、動物、植物の全てに霊魂(アニマ)がある」という考え方が生気論だ。
この生気論に対して、あくまでも唯物的に生命を捉えるのが機械論なのである。
機械論は、デモクリトスの原子論あたりに端を発するといわれるが、自然科学の世界では古代ギリシアの時代から、生気論と機械論は常に対立してきたテーマだった。
17世紀に入ると、この対立にも大きな変化が訪れる。
デカルトが、「霊魂は人間のみにあり、他の動植物には存在しない」という「動物機械論」を展開した。
そして、18世紀フランスの哲学者(医師)のラ・メトリは、「人間すらも機械と同じである」として、「人間機械論」へと発展させたのである。
彼らのこうした考え方を契機として、自然科学は機械論が主流となって進化していった。
医学もまた、この機械論をベースにして発達した学問だ。
従って現代医学では、生気論的な考え方は非科学的だとして、即座に否定される。
要するに、機械論で語れないのであれば、それは医学でも科学でもないということなのである。
では、わかりやすい例で生気論と機械論の違いをみてみよう。
一般的にも知られた「ストレス太り」という言い方がある。
精神的なストレスのせいで、過食して太ってしまうことだと認識されているだろう。
だがこの場合、太ったのは精神的ストレスが原因ではない。食べ過ぎたから太ったのだ。
つまり、「精神的ストレスで太った」と考えるのが生気論で、「食べ過ぎで太った」とするのが機械論なのである。
ところが、単なる摂取カロリーオーバーによる肥満に対して、どんなに検査しても原因が見つからないからといって、精神的ストレスが原因だと決めつける。
そして、「太らないためには食べすぎないように」というべきところ、「太らないためには精神的ストレスを溜めないように」と指導する。
そんなことでは、決してやせられない。
もうおわかりだろう。
この理屈は、腰痛と精神的ストレスとの関係でも同じことだ。
生気論では、物事を論理的に解決できないのである。
しかし腰痛の場合は、背骨のズレという判断基準を用いれば、全て機械論で語ることができる。
腰痛だけでなく、頭や首、肩、ひじ、背中、股関節、ひざなど体中のさまざまな体性痛も、背骨のズレという機械的な作用が原因となっている。
これらは全て、背骨のズレによる発痛作用の結果なのだ。
ところがここに精神的ストレスを持ち出すと、一挙に生気論となって全く科学の話ではなくなってしまう。
科学ではないのだから、治療が一向に進歩しないのも当然だろう。
また近年は、単純なストレス原因説だけでは限界を感じたのか、「ストレスによる脳の異常だ」と言い換えるようになった。
しかし、例えそれが最先端の脳科学であろうと、ストレス同様、基準もないものを診断の根拠にするのは誤りだ。
それでは科学としての存在意義を放棄した、生気論への安易な逃避である。
実は先日、必要があって久しぶりに書店の健康本コーナーに立ち寄った。
そこには、腰痛などさまざまな疾患が「かんたんに治る」というフレーズがあふれかえっている。
そのなかに菊地臣一氏の腰痛本があったので、思わず手にとった。
菊地氏といえば、福島県立医大の元学長であり、テレビ出演などでも知られた整形外科医である。
彼は、腰痛の専門書を数多く出版してきた、腰痛界の権威中の権威なのだ。
私も彼の執筆した専門書からは、データなどを何度か引用させてもらってきた。
ところがさすがの菊地センセイも、専門書と違って一般向けの健康本となると、執筆には相当に苦戦したという。
まわりの本は全て、「治る」と「治った」のオンパレードであるのに、彼には「治す」とも「完治させる」とも書けない。
整形外科では、ほとんどの腰痛が治らないことを知り尽くしているからだ。
そこで副題に、「“治らない”を考える」とつけた。
健康本でありながら、「治らない」と付記したところに苦悩がにじむ。
しかも腰痛の9割が原因不明だとか、整形外科よりも徒手療法のほうが患者の満足度が高いとまで書いてあって、完全に白旗を揚げた状態だ。
それならなぜ、その徒手療法を研究してみようと思わないのだろうか。
本書からは、患者の腰痛を治してやろうという意気込みが感じられなかった。
健康本コーナーで唯一正直な本だったのかもしれないのに、その点が残念だ。
私は腰痛という現象に対して、何とかしてそこに規則性を見つけようと努めてきた。
規則性の発見はサイエンスの初めの一歩であり、原因解明への最短で唯一の道なのである。
そう信じてきたから、腰痛の原因は、背骨の左一方向へのズレであることを発見できた。
その規則性に従って、左にズレた背骨を元の位置に戻してやるだけで、症状は消える。
これは数学の公式のようなものである。
この公式さえ当てはめれば、専門医でも解けない腰痛という難問を、だれでも簡単に解くことができる。
腰痛を完全なる機械論で語り尽くす唯一の公式、それがモルフォセラピーなのだ。
現在の整形外科での腰痛治療は、表向きは機械論であるのに、機械的な力の作用が病因に影響することなど全く想定していない。
そのため、いみじくも菊地氏が「医学の目覚ましい進歩から取り残されたような」と嘆いてみせたように、病院での腰痛治療は完全に行き詰まったままである。
そして長年、迷走した挙げ句、急激に生気論への傾倒を強めている。
だがそれもすでに限界だ。
今こそ現代医学として機械論へと立ち返り、「背骨のズレ」という概念を取り入れた「病因機械論」へと向かうべきだろう。
(花山 水清)