メールマガジン「月刊ハナヤマ通信」387号 2019/01
歴史に名を残した偉人のなかで、レオナルド・ダ・ヴィンチほど謎の多い人物はいない。
2006年に公開されて世界的に大ヒットした映画『ダ・ヴィンチ・コード』では、マグダラのマリアや黄金分割など、彼の絵画にまつわる謎解きがテーマとなっていた。
また彼の代表作である「モナ・リザ」の謎めいた微笑みも、多くの人々のロマンをかきたててきた。
いつの時代も、秘められた謎というのは魅惑的で、人の心を引きつけてやまないものである。
私も「アシンメトリ現象」の謎解きには、20年以上も没頭してきた。
そして最近になって、やっとパズルの最終ピースが揃ったことで、「アシンメトリ現象」の全体像が明らかになった。
それと同時に、モナ・リザに浮かぶ微笑みの謎までが、解けてしまったのである。
実はモナ・リザの表情が謎めいて見えるのは、ダ・ヴィンチがそのように意図したからではない。
彼はモナ・リザのモデルになった人物の、顔に現れていた「アシンメトリ現象」の特徴を、正確に描写しただけなのだ。
左目が小さくなる・鼻が左に曲がる・左口角が上がるといった「アシンメトリ現象」の特徴を、絵画でリアルに再現すると、みなモナ・リザのように意味ありげな表情になるのである。
さらに「アシンメトリ現象」の探究を通して、左右に対する洞察が深まると、「モナ・リザ」には、これまでだれも気付かなかった謎が、もう一つ存在することもわかってきた。
その謎を解く鍵は、ダ・ヴィンチが書いた鏡文字に隠されていたのである。
鏡文字とは、鏡に映したように左右が反転した文字のことだが、彼がなぜ鏡文字を記録に用いていたのかは不明だ。
彼が左利きだったからとか、脳に障害があったからだという説もある。
だが私にはそうは思えない。
彼の能力から考えれば、意識的に鏡文字を使っていたことは明らかだ。
ふしぎなことに、本人の手記には、鏡文字そのものについては何も書かれていない。
しかし鏡についての記述なら残っている。
そこには、「絵画は平面鏡に映した姿と同じであるべきだ」という内容が書かれていた。(※1)
それではダ・ヴィンチの絵画は、鏡文字と同じく左右が反転しているのだろうか。
もちろん自画像以外で、彼が絵画の対象を、わざわざ鏡に映しながら描いていたとは考えにくい。
鏡文字は、彼の絵画は鏡に映したように正確だというための、いわば小道具として登場しているだけではないのか。
ダ・ヴィンチなら、そういう理由も考えられるのである。
ところが、これで鏡文字の説明が完全に終わったわけではない。
鏡文字には、ダ・ヴィンチの計算され尽くした意図が、他にも隠されているのである。
そもそも彼の能力なら、絵の題材を鏡に映さなくても、絵画を反転させて描くことなどたやすい。
自分の視点を、画面のなかの人物の視点に置き換えるだけで、絵の左右は反転する。
すると絵のなかの人物が、自画像と同じ状態になる。
この視点の移動にこそ、重大な意味があったのだ。
通常であれば、われわれは鑑賞者として絵画を見ている。
しかし「モナ・リザ」の場合は、絵のなかのモナ・リザが、鑑賞者であるわれわれを見ている。
つまり「モナ・リザ」の前に立てば、絵のなかのモナ・リザから、われわれはじっと見られているのである。
そのモナ・リザの目を通して、ダ・ヴィンチがわれわれを見ているというわけだ。
絵画におけるこの視点の移動は、中世のころ、教会の祭壇に描かれたイエス・キリスト像で使われていた技法である。
当時の絵画のキリスト像は、あくまでも信仰の対象だから、現代人が考えるような美術鑑賞の対象ではない。
たとえ絵画として描かれた姿であっても、当時の人々にとっては、そこに本物のイエスがいて、われわれ人間を見つめているのである。
このように描き手の視点を、画面のなかの人物から見た視点に置き換えた画法のことを、逆遠近法という。
逆遠近法に対して、ルネサンス以降に登場した遠近法は、線遠近法と呼ばれる。
線遠近法では、描き手の立ち位置は被写体と向かい合っているので、左右が反転することはない。
写真と同じで、描き手が見たとおりだ。
そしてこの線遠近法を画法として確立したのが、ダ・ヴィンチなのである。
だからダ・ヴィンチの絵画は、表向きは線遠近法で描かれているように見える。
だが彼の視点が、画面のなかに入り込んでいる場合は、逆遠近法になる。
たとえば「モナ・リザ」なら、背景部分は線遠近法であり、画面のなかのモナ・リザの視点で捉えた部分は、逆遠近法になっている。
つまり彼の絵画は、線遠近法の画面のなかに、逆遠近法の絵が入れ子になった、二重構造をとっている場合があるのだ。
一方、彼の代表作の一つである「最後の晩餐」は、線遠近法のお手本的な作品だと思われている。
ところがこの作品は、イエス・キリストを中心にして使徒たちが左右横一列に配置され、この部分にだけ遠近がついていない。
そこで、ダ・ヴィンチの視点を、中央に描かれているイエスからの視点に置き換えてみると、この作品の意図が見えてくる。
従来の考え方では、ここに描かれた12使徒のうち、イエスを裏切ったイスカリオテのユダは、画面に向かって左側に配置されるはずだ。
しかしダ・ヴィンチの視点をイエスの視点に移すと、左右が反転するので、画面に向かって右側にいるのがユダだということになる。
実際、画面に向かって右側に描かれている人物は、この当時は裏切りの象徴だとされていた黄色い衣を着ているのである。
これは偶然ではないだろう。
要するに逆遠近法と線遠近法との対比は、神が人間を見る視点と、人間が神を見る視点との対比に置き換えられるのだ。
ここで神の視点を採ることで、作者の意図の解釈が180度違うものになる。
しかも中世からルネサンスへと移り変わったこの時代は、人文主義が台頭し、まさに教会の支配から脱教会へと向かっていたころでもある。
この新たな時代の流れのなかで、ダ・ヴィンチは絵画に数学的な図法を用いることで、独自の可能性を展開して見せた。
このようなことは、後にも先にもダ・ヴィンチ以外には考えつかないものだろう。
さてダ・ヴィンチの鏡文字をきっかけにして左右の反転に注目したことで、これまでの定説から離れ、全く違った解釈が見えてきた。
「アシンメトリ現象」の探究の過程でも、左右の変化という視点が、私を未知の世界へと導いてくれた。
左右というテーマは、人体における規則性の発見にとどまらず、宇宙物理学にも通じる壮大な謎を秘めている。
そこで今年は、「アシンメトリ現象」の最終的な謎解きを通して、この現象の全容についてさらに考察を深めていこうと考えているのである。
(花山 水清)
※1『レオナルド・ダ・ヴィンチ 絵画の書』 レオナルド・ダ・ヴィンチ著 P258-259
※2 今号のテーマは、昨年亡くなられた馬杉宗夫先生から生前にいただいたご著書にヒントを得ました。先生の長年のご研究に敬意を表しますとともに、ご冥福を心よりお祈り申し上げます。『黒い聖母と悪魔の謎』