メールマガジン「月刊ハナヤマ通信」383号 2018/09
来年2019年に没後500年を迎えるレオナルド・ダ・ヴィンチが、数多くの手記を残していることは、前回の当誌でもお伝えした。
その手記のなかには、彼の考えていた健康法の記述がある。
そこで今回は、その記述を参考にして、食について掘り下げてみたいと思う。
手記を読むと、ダ・ヴィンチは食にもっとも重点を置いて、健康を維持しようと考えていたことがわかる。
彼が食養生として挙げていたのは、
「食いたくないのに食うなかれ、軽く食べよ」
「よく噛め、摂取するものはじゅうぶん煮て、料理はかんたんに」
「食卓をはなれたときは、姿勢を正しくしたまえ」
「酒は適度に、少しずつ何回も」
「食事をはずさず、また空腹をかかえているなかれ」
などであるが、これらは現代のわれわれの目から見ても違和感はない。
ダ・ヴィンチが参考にしていたと思われる、『サレルノ養生訓』の内容も、大差はなかった。
非科学的な項目を除外すれば、あとは誰でもわかっていることばかりだ。
今も昔も、そのわかっていることを実行できるかどうかが、健康の秘訣なのである。
ところが彼の生きた時代と現代の日本とでは、決定的にちがう点もある。
食べ物の質や食のもつ意味合い、われわれが暮らす環境といった要素は、ことごとくちがっているといってよいだろう。
ダ・ヴィンチ本人はベジタリアンだったといわれている。
ベジタリアンというのは、植物だけを食べて肉食をしない人たちの総称である。
ベジタリアンであることの目的は、健康と宗教的なものとの2つに分けられる。
しかしダ・ヴィンチの手記に具体的な記述はないので、彼がなぜベジタリアンだったかはわからない。
多分、ベジタリアンだったピタゴラスや、ベジタリアン社会を理想としていたアリストテレスに傾倒していたからだろう。
彼は動物を非常に大切に扱っていたという逸話もあるから、生き物を殺して食べることに抵抗感があったのかもしれない。
実は私も、インドに住んでいたころはベジタリアン生活だった。
私が暮らしていたオーロビルという地域では、ベジタリアンが主流だったので、動物性のタンパク質を摂取する機会が、極端に少なかったのだ。
もともとあまり肉を食べないほうだったから、苦にはならなかったが、さすがにインドのような暑い国では事情がちがった。
日本でも、この夏は気温が40度を超えたと聞いて驚いたが、インドでは連日40度を軽く超える。
夜になっても35度まで下がることはない。
おまけに湿度も異様に高かった。
しかも、冷房設備などない。
そのような環境では、食べる気力すら失せ、ついには栄養失調で倒れてしまったのである。
ところが周囲の欧米出身者たちは、猛暑のなかでも元気だった。
彼らと私とでは、一体何がちがったのか。
暑さに強いといえばそれまでだが、同じベジタリアンでも、彼らと私とでは食べる量がまるっきりちがっていたのである。
そもそも人間は草食動物ではない。
肉食によって動物性タンパク質をとらないのであれば、必要な栄養を得るには、その分、食事の量を増やさなければならない。
江戸時代の日本人もほとんど肉を食わなかったが、いわゆる「一升飯」のように、おどろくほど大量のコメを食べることでカバーしていたのだ。
ところがインドでの私は、ほとんど食事がのどを通っていなかったのだから、たまに肉でも食べなければ、倒れるのは当たり前だろう。
他にも理由はたくさんあるが、今の私はベジタリアンではないし、他人にも肉食をすすめる。
ベジタリアンといえば、日本ではこの2、30年、がんと診断された途端に、玄米菜食に切り替える人がいる。
がん患者でなくても、玄米菜食が体にいいと誤解している人は多い。
しかし、がん患者が玄米菜食にしたからといって、がんが治るわけではない。
再発や転移の予防になるわけでもない。
玄米菜食では、がんの治療にもっとも大切な体力まで落ちるから、利点などないといってよい。
それだけでなく、動物性食品をとっていないと、江戸時代の人のように血管がもろくなって、脳出血で死ぬ確率まで高まってしまうのだ。
玄米を勧める人は、玄米の胚芽の部分に、ビタミンB1、B6、Eやミネラルなどが豊富に含まれていることを、利点として挙げる。
確かに明治のころまでなら、白米食ではビタミンB1不足で脚気になる人が多かった。
その記憶が、必要以上に玄米信仰を増幅させている。
だが現代なら、普通の食事をしていれば脚気の心配などいらないのだ。
また動物性の食品には、タンパク質だけでなく、多様な栄養素が含まれている点も重要である。
特にビタミンB12は、動物性食品にしか含まれていない。
このビタミンB12が欠乏すると、悪性貧血になってしまう。
従って、健康という観点からみれば、完全なベジタリアンというのは全く現実的ではないのである。
さらに玄米食には他の問題もある。
私は「アシンメトリ現象」の原因の一つに、アルカロイドの影響を挙げているが、アルカロイドとは植物に多く含まれる毒性の物質だ。
コメの場合だと、アルカロイドは胚芽の部分に多く含まれている。
だから、玄米の状態でコメを食べていると、必然的にアルカロイドの摂取量が増えてしまうのだ。
ほとんどの植物は毒性をもつことで虫などの外敵から身を守っている。
毒のせいで味が渋かったり苦かったりすれば、食べられずにすむからだ。
人間であっても、キノコを含め、庭先に生えている植物を手当たり次第に食べていたら、まちがいなく植物毒で死ぬことになる。
どこでも見かけるスイセン、キョウチクトウ、チョウセンアサガオ、スズランなども猛毒だ。
しかし意外なほど多くの人が、身近に猛毒の植物があることを知らないで暮らしている。
人類は1万年ほど前に農耕を始めたおかげで、植物を大量に生産できるようになった。
しかし植物毒を減らす品種改良が完了するまでには、多くの時間がかかった。
ジャガイモにしても、江戸時代に日本に渡ったころは、まだまだアルカロイドが強すぎて一般的な食べ物にはならなかったほどだ。
ところが緑の革命のおかげで、安全な穀物や野菜を大量に生産できるようになった。
こうしてやっと、人類最大の目標であった飢餓からの解放が達成されたのである。
だがこの輝かしい人類史の裏では、新たな問題が発生していた。
産業革命以降、人類はおびただしい量の化学物質や重金属、放射性物質を環境に放出するようになった。
それらの物質が、胚芽の部分にはより多く含まれているのである。
だが問題なのは、それが植物だけでなくあらゆる食品にまで含まれるようになったことだ。
これは人類にとって新たな毒の出現といってよい。
そして、それらが「アシンメトリ現象」の原因物質となって、われわれの体を蝕んでいるのである。
そのため食と健康との関係も、ダ・ヴィンチのころとは全く状況がちがう。
さらに、環境中に放出された有害物質を回収する技術は、いまだ存在していない。
ひたすら加速度的に増えていくのみで、人体から完全に排除することも不可能だ。
また、急性症状でもない限り、どれだけ健康が阻害されているかを計るすべもない。
現在の科学技術では、将来の健康被害を予測することすら、むずかしいのである。
「ただちに問題はない」とか「さしあたって健康に害はない」といったような、目先の判断しかできないありさまだ。
しかし、実際には、「アシンメトリ現象」がどれだけ体に現れているかを見れば、将来的な健康状態を知ることができる。
もしダ・ヴィンチが「アシンメトリ現象」の存在だけでなく、その意味にも気づいていたら、その度合いを数値化しようと考えたかもしれない。
それが実現していたら、医学の進む方向も今とは大きくちがったものになっていただろう。
では具体的には、われわれは食の何に気をつけて暮らすべきなのか。
私が明確な答えを提示できればよいのだが、今の時代は不可抗力的な要素が多すぎるから、個人の努力で解決するには限界がある。
そこで、あくまでも私が食について考えている目安を挙げておくので、参考の一つにしていただけたらと思う。
【1】玄米菜食などの極端な食事をしない。
・フードファディズムに踊らされて極端な情報をうのみにしない。
・健康食品・サプリメントをとらない。
【2】加工食品を極力買わない。
・加工の段階が進むごとに添加物の量が増え、栄養は失われる。
【3】化学調味料が入った食品を買わない。
・化学調味料であるグルタミン酸ナトリウム(MSG)は、背骨のズレの原因。
MSGは食品パッケージの成分欄には「アミノ酸等」と表記されている。
・飲料、調味料、菓子、サプリメントなどにも、MSGが含まれているので注意。
・化学調味料をとらないようにすると味覚が正常になる。
【4】外食を減らす。
・衛生面だけでなく、素材の安全性が確保されているかどうかは客の立場では、
判断できないので外食にはリスクが多い。
・外食にはMSGの量も圧倒的に多い。
⇨帰り道に頭痛・腰痛・ひざ痛が出る人がいるほどダイレクト
【5】有機・無農薬の表示を購入の判断基準にしない。
・有機・無農薬と表示されていることが安全や健康の保証にはならない。
【6】朝昼晩、決まった時刻に食事をとる。
・生活のリズムを優先させることが、健康にはもっとも重要。
・腹8分目に抑えておけば、定時にはお腹が空くようになる。
【7】寝る前の3時間は食べない。
・睡眠の質を充実させるためにも夜食は不可。
・夕方以降はカフェインをとらない。
【8】酔っぱらうほど酒を飲まない。
・飲みすぎて良いことは何もない。
・深酒の習慣は、緩慢な自殺行為である。
・自制できない人は、1杯だけと決めておく。
【9】眼の前に出されたものは、感謝しておいしく食べる。
・食べることは生き物の命をいただくことだから、ムダにしてはいけない。
これは食の基本中の基本である。
以上。
食の安全に関して全く気にしないのは問題だが、気にしすぎてもきりがない。
どこかで線引きをしなければ、食の楽しみという側面まで失ってしまう。
何を食べて何を食べないかは、人それぞれの生き方の問題であり、かなりの部分が信仰に属することなので、批判も規制もするつもりはない。
だが、行き過ぎた健康志向は、飽食グルメの延長でしかない。
ダ・ヴィンチが現代に生きていたなら、私のこの考えを否定はしないだろう。
次回は、「ダ・ヴィンチ健康法」から、「排泄」について考えてみたい。
(花山 水清)