メールマガジン「月刊ハナヤマ通信」381号 2018/07
ヒポクラテスの「芸術は長く、人生は短い」という有名な言葉がある。
芸術を志す者にとっては、心に深く響く名句である。
芸術の無限感と有限なる人生、この対比によって人の命のはかなさが鮮明になる。
松尾芭蕉の「旅に病んで 夢は枯野をかけ廻る」にも似て、日本人の感性にも強く訴えかけてくる。
これは、ヒポクラテスを研究していたゲーテが、その著書『ファウスト』のなかで、登場人物のワグネルに語らせたセリフで、秦豊吉が翻訳したものである。
森鴎外の訳になると、「学芸はとこしえにして、我等の生は短し」となっている。
だがこれはもともと『ヒポクラテス全集』の箴言の第一章に登場する表現である。
その意味するところも、芸術や学芸ではなく、医術に対してのものだったのだ。
ヒポクラテスの時代(紀元前4~5世紀)の医術は、現代の医学のような独立した学問として体系づけられたものではなかった。
医術は芸術、学芸などと同列にある術(テクネー)の一つであった。
古代ギリシアでは術は、全て神の世界のものであり、それを人間の世界にもたらしたのが神の一人のプロメテウスである。
前回は、術の宝庫であるアリストテレスの著述のなかから、「アシンメトリ現象」についての記述を紹介した。
私は当初、アリストテレスが「アシンメトリ現象」を記した最初の人物だと思っていた。
ところがその後、ヒポクラテスの記述のなかにもわずかながら「アシンメトリ現象」らしきものを見つけたのである。
おそらくこれが、日本語で拾える「アシンメトリ現象」の最も古い記述となるだろう。
ヒポクラテスには、医学の父、実証医学の祖、医聖などのさまざまな称号がある。
アリストテレスは彼のことを大医と讃し、ガレノスは神医と呼んで尊んだ。
そのような偉大な医師が簡単に死ぬわけがないと考えられたため、記録上の没年だけがどんどん延びて、最長104歳まで生きたことになっている資料もある。
また彼の活躍した時代は、ヘロドトスが実証的学問としての歴史を確立したころであり、ちょうどペルシア戦争からペロポネソス戦争を経て、西洋が世界史の中心になっていく過渡期でもあった。
美術史的には、アルカイック期からクラシック期へと向かうギリシア美術黄金期の幕開けの時代で、あのパルテノン神殿が建てられたころでもある。
そしてヒポクラテスは、医神アポロンやアスクレピオスの系譜とされ、今では完全に神格化されている。
日本ならさしずめ、医神オオクニヌシノミコト(大国主命)やスクナヒコナノミコト(少彦名命)の系譜といったところだろう。
このような医神のイメージが強すぎるため、彼は神話時代の人のように思われがちだ。
ところが実際には、彼はソクラテスと同時代の人であり、ホメロスよりもかなり後の時代に生きた人である。
また医学の歴史をたどると、メソポタミアやエジプトなどは、紀元前50世紀までさかのぼることができる。
それに比べれば、彼の生きた紀元前4、5世紀などは、ごく最近でなる。
最近といっても、最も古い医学の記録としてまとまって残っているのは、『ヒポクラテス全集』ぐらいなのだ。
『ヒポクラテス全集』は、紀元前3世紀ごろにアレキサンドリアの学者たちが、プトレマイオス王家から委嘱されてまとめたものである。
全集としてヒポクラテスの名を冠しているが、複数の著者が入り混じっている。
しかも全集のなかに、著者の署名のあるものは一つもないので、ひょっとすると全てがヒポクラテスの著作ではない可能性すらある。
しかし、たとえ著者や書かれた時代がヒポクラテスと違っているとしても、全編がアリストテレス以前のものであることだけはまちがいない。
そのことが、「アシンメトリ現象」の最古の記述を探している私にとっては、最も重要なのである。
現在、『ヒポクラテス全集』の日本語訳は、今裕の1978年版と、大槻真一郎他の1985年版の2つが存在する。
その両書を比較したうえで、今回は大槻氏たちの版から、歴史上最古の「アシンメトリ現象」の記述を拾ってみたいと思う。
【1】--〔↓引用はじめ〕---------------
季肋部は痛みがなくて柔らかく、右側も左側も一様であるのがもっともよい。炎症をおこしていたり、痛みがあったり、強く張っていたり、右側が左側にくらべて変わった状態にあるのは、すべて気を付けなければならない。(中略)
堅くて痛みをともなう季肋部の腫れは、それが季肋部全体に広がっている場合には、もっともわるい。その腫れが季肋部のどちらか一方の側にあるとすれば、左側にある場合のほうが危険が少ない。(「予後七」より)
--------〔↑引用おわり〕---------------
季肋部とは、上腹部の左右の肋骨弓下の部分であり、ヒポクラテスは、この部分の腫れ方に左右差と規則性があることを認めている。
一部の研究者からは、右側の腫れは虫垂炎についての言及だと考えられている。
それでは左側が腫れた場合は、一体どのような病態が想定されるのだろうか。
この文章のなかでは、「左側の腫れは危険が少ない」といっているので、重大な疾患を指しているわけではない。
「アシンメトリ現象」の場合も、左季肋部は腫れているように見えるが、そこに疾患があるわけではない。
これらの共通点から見て、上記が「アシンメトリ現象」を表した記述であると考えられる。
【2】--〔↓引用はじめ〕---------------
頸椎が右にも左にも片寄らず真っ直ぐに移動した患者は、体が麻痺することはなかった。(中略)
頸椎が左右どちらかに片寄っている人たちは、傾いた側が麻痺をおこし、その反対側が引きつった。この症状は顔面や口、口蓋帆において顕著であった。さらに下あごがそれに従って変形した。(「流行病 二四」より)
--------〔↑引用おわり〕---------------
この記述は、「咽頭炎様の疾患はつぎのような症状であった」という書き出しで始まっている。
「咽頭炎様の疾患」というのは、頚椎異常に関するものであると研究者たちからは考えられている。
またここでいわれている「麻痺」とは、頚椎損傷による麻痺ではなく、顔面神経麻痺の病態のようだ。
だが現代の医学でも、顔面神経麻痺の原因ははっきりとしていない。
しかし顔面神経麻痺は、頚椎のズレによっても引き起こされることがある。
頚椎由来の症状なら、頚椎のズレ方によって出現する方向が決まる。
現代では誰も知らないけれど、ヒポクラテスはすでにこのことを見抜いていたのである。
私は背骨のズレという表現をたびたび使っているが、背骨のズレとは、背骨が本来の位置から微妙にズレた状態のことで、脱臼や骨折とは全く別な病態である。
『ヒポクラテス全集』でも、背骨のズレは脱臼や骨折とは区別されている。
【3】--〔↓引用はじめ〕---------------
背骨の椎骨が病気のために後方に引っ張られて湾曲した場合、この背中のこぶは大抵なおらない。(中略)
脊椎骨が横に向かって左右どちらかに曲がる人もいる。このような症状はすべて、もしくは大部分が、背骨の内側にできた結節のかたまりのためにおこるものである。(「関節について 四一」より)
脊柱は、健康な人の場合でもいろいろなふうに湾曲する。(中略)そのうえ、年をとったり苦痛が加わったりしても曲がる傾向がある。(「関節について 四七」より)
--------〔↑引用おわり〕---------------
ここに書かれている背中の湾曲やこぶとは、どのようなものを指しているのか。
話の内容からすると、重大疾患によるものではないらしい。
そしてこの後には、背中の湾曲やこぶに対して、器具を使った矯正方法の記述が続いている。
長い文章なのでここでは省略するが、その部分の最後で、
【4】--〔↓引用はじめ〕---------------
以上の失敗を私は故意に書き記した。試してみてうまくいかなかったのが明らかになったことや、どういう理由でそれがうまくいかなかったのかということは、教訓としてよいものだからである。(「関節について 四七」より)
--------〔↑引用おわり〕---------------
このように、矯正が成功しなかったことを正直に書いているのである。
私は、この背中の湾曲やこぶというのは、「アシンメトリ現象」に見られる左起立筋の盛り上がりのことだと解釈している。
左起立筋が盛り上がるのは、背骨のズレによるものだ。
ヒポクラテスが背骨のズレを認識できていたとすると、背中の湾曲やこぶというのは起立筋のことだと考えてまちがいない。
仮に「アシンメトリ現象」によるものならば、ここに書かれていたような矯正法では当然うまくいくはずがない。
起立筋の盛り上がりは、背骨のズレが原因であっても、そのズレを矯正さえすれば簡単に消えるというような、単純なものではないのだ。
彼のおこなった矯正がうまくいかなかったのは、一度や二度のことではなかったと思う。
何度も挑戦した結果、ダメだったのだろう。
だがそれまでにも、他の疾患の治療でうまくいかなかったことなど、いくらでもあったはずだ。
それなのに、なぜこの矯正に関してのみ、自分の失敗をさらけ出して、後世に託すようなこだわりを見せたのだろうか。
ヒポクラテスには、師と目されている人物が二人いる。
そのうちの一人がヘロディコス(前5世紀)である。
ヘロディコスはいわゆる医師ではなく、体育訓練の指導者であった。
今でいうならオリンピック競技のトレーナーのような存在だ。
彼は日常的に、競技者のケガの処置や健康管理などの医療的な役割も担っていた。
従って、ヒポクラテスがヘロディコスから学んだのも、創傷・脱臼・骨折・慢性関節疾患の療法であった。
それらは医師がおこなう薬物療法と違って、徒手療法的なものである。
すると技術の上手・下手で結果が大きく違ってくる。
ところが左起立筋が盛り上がるほどの背骨のズレとなると、少々矯正の技術を磨いたからといって解消できるものではない。
ヒポクラテスも悪戦苦闘した挙げ句、この治療の限界を感じていたのか。
もちろん、師であるヘロディコスは成功し、ヒポクラテスだけがうまくいかなかったわけでもないはずだ。
この一文には、「それでも何とかして治したい」という彼の思いがにじみ出ている気がする。
『ヒポクラテス全集』を通読してみると、個々の記述によって人体に対する観察力や洞察力にかなりのばらつきがある。
同じような話でも、全く別な人が書いたと思われるものや、誰かからの聞き書き的な内容も多い。
しかし矯正がうまくいかなかったという話だけは、全集のなかでは極めて異質なのだ。
小川政修の大著『西洋医学史』にも、『ヒポクラテス全集』の「関節について」の章は、ヒポクラテス本人の著述である可能性が高い、という記述がある。
すると失敗を記したこの一文だけが、ヒポクラテス本人が書いたものかもしれない。
そして、これこそが後世に託したヒポクラテスの遺言ではないかと思われるのだ。
この全集を見れば、当時の人の体にも左右差に規則性があったことがわかる。
そしてヒポクラテスほどの人物なら、「アシンメトリ現象」の存在に気づいていた可能性も否定できない。
なかでも、彼が記した背中の湾曲やこぶ、つまり左起立筋の盛り上がりは「アシンメトリ現象」の最もコアな部分なのである。
彼はその重要性がわかっていたからこそ、何とかして治したかったのだろうか。
そうだとしたらおもしろい。
ヒポクラテスは矯正に何度も挑戦したのに成功しなかった。
だからこそあえて書き残した。
そんな想像をしてみると、彼から受け取ったバトンをさらに磨き上げて、次の世代へと渡すこと、それがわれわれの使命なのかもしれない。
(花山 水清)