メールマガジン「月刊ハナヤマ通信」379号 2018/05
20世紀初頭のドイツ医学界で、近代解剖学の祖はレオナルド・ダ・ヴィンチかヴェサリウスかという議論が起こったことがある。
その結果は、はっきりとはわかっていない。
多分、ガレノス以来の旧説を覆した功績で、ヴェサリウスが創始者だということになったのだろう。
だが近代解剖図を創り上げたのは、まちがいなくダ・ヴィンチだ。
確かに、ヴェサリウスが『
ファブリカ 』という解剖図の本を世に出した功績は大きい。
しかし『 ファブリカ 』の解剖図を実際に描いたのは、ティツィアーノの弟子であり、ヴェサリウス本人ではない。
その点ダ・ヴィンチは、自らの手で解剖をおこなうのと同時に、解剖図も自分で描いている。
それまでの解剖図といえば、図としての体裁すら整っていなかった。
そんな解剖図を、歴史上初めて、図法として確立したのがダ・ヴィンチなのである。
この業績において、かつて彼を超えた解剖学者はいない。
また、ダ・ヴィンチの作図に対する意識の高さも、他に類を見ない。
作図の本来の目的は、建築図面のように平面から立体を再現することにある。
従って、立体を意識していない図では役に立たない。
それは解剖図においても同じことなのだ。
しかしダ・ヴィンチ以前の解剖図からは、立体という意識などほとんど感じられない。
現在のようにCGで立体が表現できるようになるまで、その傾向は変わっていなかった。
そもそも解剖というのは、死体を切り分けていく作業である。
解剖の目的のなかに、切り分けたパーツを元の状態に戻す作業など、全く想定されていないから、バラバラにして終わりなのだ。
そのせいで、作図においても、図として最も大切なはずの立体を再現して見せるという意識が薄い。
これは現在使用されている解剖図についても、同じことがいえる。
例えば少し前まで、かなり評判の良かったネッターの解剖図ですら、あれは図ではなく単なる絵でしかない。
絵としてのレベルも、ダ・ヴィンチの足元にも及ばない。
ネッターに限らずほとんどの解剖図は、脈管系などがどこでどうつながっているのかがわかりにくい。
まるで不親切な路線図を見ているようだった。
その点、ダ・ヴィンチの解剖図は、500年も昔の技術でありながら、正面、側面、断面を描き分けて見せることで、見事に図としての機能を果たしている。
透視図法などの遠近法に留まらず、短縮法まで駆使して、より緻密に立体を再現しようと試みているのである。
また、彼の解剖図(『
解剖手稿 』)の一部には、8角星形(※1)が描きこまれている。
8角星形は、体を45度ずつ8回転させることで、360度の立体を表現することを意味しているそうだ。
図によってはさらに細分化し、22.5度ずつ回転させて描いたものまであった。
これらの表現は解剖図だけでない。
前回紹介した「モナ・リザ」、「サルバトール・ムンディ」、「イザベラ・デステの肖像」、「白貂を抱く貴婦人」、「美しき姫君」の連作とも同じ手法である。
つまり、ダ・ヴィンチの作品は平面であっても、立体以上に対象を正確に捉えているのだ。
そしてこれが、「彫刻より絵画のほうが立体を表現する上で優れている」と彼が力説する根拠でもある。(※2)
だからこそ、ダ・ヴィンチの作品に登場する「アシンメトリ現象」は、正確な資料になるといえるのだ。
さらにおもしろいのは、「チェーザレ・ボルジアの肖像」(※3)にも、はっきりと「アシンメトリ現象」が読み取れる点である。
左目は小さく、左頬がこけ、鼻は左に傾き、左口角が上がり、そして、左肩も上がっている。まさに「アシンメトリ現象」の見本のような姿なのだ。
この「チェーザレ・ボルジアの肖像」はスケッチ(素描)だから、対象を正確に写し取った段階で、まだ修正は加えられていない。
ダ・ヴィンチが目にした姿そのままだと考えてよい。
そこにこれほどはっきりと「アシンメトリ現象」の特徴が現れていることは、歴史的な資料としても価値がある。
それでは彼の体を、これほど左右非対称な形にしたのは一体何だったのか。
マキャヴェッリの『 君主論 』にも書かれているように、この時代は権力闘争の真っ只中であった。
毒薬による暗殺なども、かなり頻繁におこなわれていたようだ。
『
ボルジア家の毒薬 』という映画があるほどだから、チェーザレ・ボルジア本人が毒薬と無縁だったとは考えにくい。
ボルジア家の毒薬は、チョウセンアサガオを使ったアルカロイドだったという説もある。
1453年、コンスタンティノープルがオスマントルコの手に落ちた。
その結果、最先端のアラビア医学が流れ込んだヨーロッパでは、薬の開発が進んだ。
大航海時代の幕開けによって、急速にヨーロッパに梅毒が広がり始めたため、薬としての水銀の使用も増えていた。
あのイザベラ・デステが、歯のホワイトニングのために水銀を調合した薬を使っていたという記述まである。
そういった時代背景からすれば、当時は裕福な貴族ほど、さまざまな薬に接する機会が多かったはずだ。
その影響で、貴族たちの体に「アシンメトリ現象」が増えていたのかもしれない。
絵画を通してであっても、ダ・ヴィンチほどの天才の作品であるがゆえに、そういった史実まで読み取ることができるのだ。
さて、今回は「アシンメトリ現象」の歴史をたどる目的で、たまたまダ・ヴィンチの作品を調べてみたわけだが、どうやら彼自身も「アシンメトリ現象」の存在を意識していたようだ。
逆に彼ほどの人物が、この現象の規則性に気づかないわけがない。
ダ・ヴィンチは、画家として有名な割に作品数は少ないのに、その少ないなかに、これほどの「アシンメトリ現象」を発見できたことは、決して偶然ではない。
ダ・ヴィンチが人体を実測することによって完成させた、あの「ウィトルウィウス的人体」(※4)にしても、そこに描かれた人体は左右対称ではないのだ。
理想の人体比率を表現したのだから、この絵だけは左右対称でなければならないはずだ。
それなのに、明らかに非対称に描かれていることにも、ダ・ヴィンチからのメッセージを感じる。
なみいるダ・ヴィンチ研究者たちが、なぜこの事実に対して疑問も関心も持たないのかがふしぎだ。
他にも興味深いのは、彼の代表作ともいわれる「最後の晩餐」(※5)である。
これは、イエス・キリストが使徒とともに食卓を囲んでいる絵であり、一点透視図法で描かれていることでも有名だ。
その画面の中心である消失点は、なんとイエスの左目に置かれているのである。
しかもその左目が、右目よりも小さく描かれている。
ここまで執拗に「アシンメトリ現象」を作品に埋め込むことで、彼は何を訴えたかったのか。
私は以前、「アシンメトリ現象」は死へのメタモルフォーゼであると本にも書いた。
ダ・ヴィンチもまた、人体の左右差に規則性があること、そしてこの現象が死を内包していることまで感じとっていたのではないか。
もし、私が『 ダ・ヴィンチ・コード 』のようなミステリーを書くとしたら、ダ・ヴィンチが「最後の晩餐」でイエスの左目に消失点を置いたのは、イエスの死を予言した構図なのだ、と結論づけることになるだろう。
(花山 水清)
*ダ・ヴィンチ(レオナルド・ダ・ヴィンチ 1452年-1519年)
ダ・ヴィンチの故郷イタリアでは、歴史上の偉人は通常、ファースト・ネームで表記するそうですが、今回は「ダ・ヴィンチ」と表記しました。
* ガレノス(129年頃 - 200年頃)
* ヴェサリウス(=アンドレアス・ヴェサリウス、1514年-1564年)
*『ボルジア家の毒薬』(1953年 仏伊合作映画)
※1「8角星形」(=八芒星)
※2「絵画は触わることのできぬものを触われるように、平らなものを浮き上がっているように、近いものを遠いように思わせること、奇跡さながらである」 ~『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』より
※3「チェーザレ・ボルジアの肖像」
※4「ウィトルウィウス的人体図」
※5「最後の晩餐」z