メールマガジン月刊ハナヤマ通信 371号 2017/09
以前の当誌でインド映画の『PK』を紹介した。
あの映画でラージクマール・ヒラーニ監督が、宗教のタブーに切り込んだ勇気に敬意を表して、今回は私も少し突っ込んだテーマを選んでみた。
まずは、ある80代の女性Aさんの実例からお伝えしよう。
Aさんは以前から足にしびれ感があり、歩行が少し困難な状態だった。
どこに行っても何をやってもしびれが取れないし、病院では糖尿病のせいだと診断されたので、なかばあきらめていた。
ところがお友達からの紹介で、当院で背骨のズレの矯正を受けてからは、しびれ感が気にならないレベルまで治まって、歩行もかなりスムーズにできるようになった。
要するに、Aさんの足のしびれや歩行の不調は、糖尿病ではなくて背骨のズレが原因だったのだ。
その後も、腰やヒザなどに不具合が生じるたびに来院されていたが、あるときからピタリと顔を見せなくなっていた。
紹介者の話では、家族から「もっとちゃんとしたところで診てもらわなければダメだ」といわれて、有名な整形外科に通っているということだった。
だがその整形外科で、糖尿病には禁忌だったはずの薬を処方されたせいで、大きく体調を崩してしまった。
しかも肝心の腰やヒザの痛みが、ますます悪化していた。
それで困り果てたAさんは、紹介者を介してまた当院に来られたのである。
こういうことは珍しくないから気にもしないのだが、久々にAさんの体を見た私は愕然とした。
思わず「どうしたの、そのお腹!」と口に出してしまったほど、まるで妊婦さんのようにお腹が大きく腫れ上がっていたのである。
確かにAさんは以前から太り気味ではあった。
だがいわゆる贅肉と、この腫れ方は全く別物だ。
本人としては自覚症状があるのは腰やひざだけで、便秘以外に腹部には何もないという。
けれども、これは腰痛やひざ痛どころの話ではない。
自覚症状がなくても、相当危険な状態であることは明らかだった。
そこで本人には、とにかくどこでもいいから、消化器科のある病院にすぐ行くようにと伝えた。
同行していたAさんの友人も、花山先生がそこまでいうのだから、絶対に行ったほうがいいと勧めてくれた。
ところがあとで迎えに来た娘さんたちから、「病院に行くのは今日でなくてもいいじゃない?」といわれて、Aさんはそのまま帰宅してしまったらしい。
そして数日後に近所の消化器科を受診したが、その病院では単なる便秘だと診断され、下剤を処方されて帰された。
それからさらに2、3日経って、Aさんの容態は急変した。
救急搬送された先の病院で、末期の膵臓がんであることが判明し、余命宣告も受けた。
そして間もなくして亡くなったのだ。
私がすぐ病院に行くように伝えてから、1ヶ月も経たない間のことである。
さてこの話を聞いて、どのような感想を持たれただろうか。
最も平均的な感想は、まめにがん検診を受けていれば死なずにすんだのに、というものだろう。
だがそれは、がん治療の現実を知らないワイドショー的な発想である。
私はこれが、Aさんにとっては最善だったと思っている。
実際、医師や身内のちぐはぐな対応はあっても、もっと早い段階でがんを見つけたからといって、それで長生きできた保証などない。
それどころか、早く見つかった分だけ肉体的にも精神的にも苦しむ期間が長かったはずだ。
治療によっては、さらに短期間で亡くなっていた可能性も高い。
しかしAさんの場合は、入院するまではがんによる苦しみなどなかった。
少々の不具合はあっても、介護されることもなく一人で暮らせていたのである。
寝たきり10年が当たり前といわれる日本において、1ヶ月にも満たない入院生活で最期を迎えることができたのは、上出来の部類だと思う。
この考え方の土台となるのが、がんという病気をどう捉えるかなのである。
がんが日本人の死因のトップに君臨するようになって久しいし、がんは地獄の苦しみなどと聞けば、だれもががんになるのは恐ろしいことだと考えるだろう。
以前の私にとっても、がんはできるだけ避けたい病気であった。
また、がんは早期発見・早期治療をすれば助かるという説にも、昔は疑いを持っていなかった。
だからこそ来院患者のがんを見落とすことがないように、全力を尽くして調べていたのである。
しかし今は違う。
背骨のズレという現象を知れば知るほど、がんに対する考え方は変わった。
以前のように、積極的にがんを探さなくなった。
平均寿命を超えようかというような、高齢者の場合はなおさらだ。
ではなぜがんを探さなくなったのか。
それは、がんを早く見つけたからといって、今の病院でのがん治療が、本当に患者の利益につながるのかどうか、確信が持てないからだ。
そして何よりも、背骨のズレはがんと深い関わりがあることがわかった以上、がんに対する私のアプローチも変わった。
つまり、今現在がんがあろうがなかろうが、常に背骨のズレさえ矯正していればよいと思うようになったのだ。
また、がんに対するアプローチの変化とともに、がんそのものに対する見方も大きく変わった。
がんがあることが、そのまま死を意味するわけではないし、逆にがんが治ることと生命が有限であることとは、全く関係がないのである。
例え今は助かっても、いずれ死を迎える運命に変わりはない。
こう言ってしまうと身も蓋もないが、この事実を覆い隠してみたところで、寿命が延びるわけでもない。
そもそも医学の世界では「死は敗北である」と教育される。
だからこそ、死の回避に力点を置いて病気を治療する。
だが、人は何らかの原因で必ず死ぬのだから、生死を勝ち負けで捉えれば、医学が勝利することはあり得ない。
必然であるはずの死を敗北と捉えることが、病気という現象の本質を見失わせる最大の原因なのである。
歴史を見ても、健康と病気は、善悪と勝ち負け、浄・不浄、賞罰など、さまざまな対比で脚色されてきた。
そして病気にはマイナスのイメージしかない。
けれどもがんの本質を考えると、生命にとって病気という現象の位置づけを、新たに定義し直す必要がある気がするのだ。
前回の当誌では、がんに対して内因性オピオイドによる鎮痛作用が働くのは、自己防御機能ではないかと書いた。
しかし痛みというのは、本来なら体の異常を知らせるアラームであるはずだ。
ではがんに対して鎮痛作用が働くのは、異常があるのにアラームを止めることになってしまう。
これはアラームが壊れているのだろうか。
それとも、体のなかではがんを異常だと捉えていないからだろうか。
もしかして、がんという現象は生命が有限であるために、生命の発生の時点からプログラムされているシステムなのかもしれない。
そうであるなら、がんを病気と捉えること自体がまちがいだったことになる。
すると、がんは単なる老化現象の一つではないのか。
われわれはがんの存在に対して、もっと寛容になるべきなのだろうか。
もちろん、若年のがんや特殊な条件下でのがんは除外される。
しかしがんそのものは恐ろしい敵でも戦うべき相手でもなく、終末に向かってソフト・ランディングするために、上手につきあっていく対象なのかもしれない。
すると内因性オピオイドによる鎮痛作用も、人間が「安らかに死ぬ」ために組み込まれた、最善の防御機能だと考えることができる。
そしてこの一連のシステムに、是が非でも対抗しようとすることが、苦しみを生む原因ではないのか。
今の病院でのがん治療を見ていると、そう考えざるを得ないのである。
(花山水清)