メールマガジン月刊ハナヤマ通信 368号 2017/06
おかげさまで当誌は先月、創刊14周年を迎えることができた。
そこで、既刊の367回分すべてに目を通してみたら、内容が重複している部分も見られた。
何度も登場するのは、それほど強調したい話なのだと理解していただければありがたいのだが、その繰り返し取り上げている話題の一つが、近藤誠氏の「がんもどき理論」である。
これからの時代は、がんと全く無縁で生きられる人はいない。
家族や友人、知人のうちのだれかは必ずがんになる。
そこで、がんという病気をどうとらえるかを考える上で非常に参考になるので、彼の理論について今一度、書いておきたいと思う。
先日も私は彼の『
がんは治療か放置か、究極対決 』という対談本を読んだ。
ふつうは、医師の対談本といえば、お友達同士の会話をまとめたようなものばかりである。
ところがこの対談相手は、いわば彼の論敵であった。
誌上でお互い正反対の意見を戦わせて、決着をつけようという企画だった。
どちらかが論破されれば、地位と名誉どころか患者からの信頼まで失う羽目になるから真剣だ。
これまでにも、何人もの医師が近藤誠批判をあちこちで展開してきたが、どれも陰口ばかりで一度も直接対決に至ったことはない。
だからこの対談相手である東京女子医大がんセンター長の林和彦医師は、ある意味では勇気がある人なのだろう。
医学界から総攻撃を受けている近藤氏の「がんもどき理論」については、当誌では度々登場しているので、要約だけ書いておく。
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がんには、本物のがんとがんもどきの2種類があり、本物のがんなら治療しても治らないし、がん(この場合は固形がん)の治療を受けても縮命効果しかないので、治療を受けるべきではない。
一方、がんもどきなら死に至ることはないので、これまた治療する必要はない。
さらに、がんを早期発見しても救命率は向上しないから、がん検診も意味がないという、まことに大胆な理論なのである。
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医学の世界では、医師同士が個人的にいがみ合うことはあっても、公の場で医師が医師を批判するようなことはない。
これは医学界だけでなく、利権を共有する業界ではすべて同じだろう。
しかし近藤氏に対してだけは、医学界が総攻撃をかけているのだから、こんなことは前代未聞である。
よほどの業界のタブーに触れたのでなければありえないはずだ。
では、そのタブーとは何か。
それは、「がん治療もがん検診もムダだ」といってしまったことだろう。
ところが、従来のがん治療を否定した医師ならこれまでにも大勢いたはずだ。
健康食品や漢方薬業界の片棒を担いだり、爪を揉めばがんが治るなどといってみたり、とんでもなく非科学的な持論を展開する医師もいた。
しかし近藤氏の理論は彼個人の思い込みではない。
手術や抗がん剤治療の延命率などは、世界的な論文の最新データに基づいて発言しているところに、彼らとの大きな違いがある。
逆にいえば、あまりにもストレートに本当のことを発表してしまったのが、医学界の虎の尾を踏む結果になったのか。
以来、彼は業界の裏切り者、日本医学界のスノーデンとなった。
また彼が批判している対象は、主に手術や抗がん剤などのがん治療だ。
がん治療の批判が気に食わないのなら、それが医学界最大の利権だったということになる。
電力会社が電気料金を値上げに痛痒を感じないのと同じで、医師は患者の不利益になど全く頓着しない。
しかし自分たちの利権の侵害には敏感だった。
もちろん表向きは、近藤氏のいう通りにしたら助かる患者も助からなくなるから、それは看過しがたいという義憤にかられた形をとっている。
ところが、彼らの近藤氏に対する批判本のいくつかを読んでみると、論点をずらした姑息なものが多い。
何よりも、近藤氏の本の記述そのものが正確に読めていない。
意図的にわからないふりをしているのかもしれないが、近藤氏が最新の論文を読み込んだうえで、そのデータを根拠にして理論を緻密に構築しているのとは、あまりにも対照的なのだ。
今回の対談本にしても、相手の林氏は本を読んだといっているが、理論を理解できていないと思わせる点が随所に見られた。
しかも論戦相手としては、あまりに勉強不足で言葉もあいまいだ。
しまいには近藤氏から、「林さんは医学者なのだから、『感じている』とか『信じている』などという根拠不明なことを言わず、もっと具体的な指摘をされたらよかったのに」とたしなめられる始末である。
これでは論破するどころか、両者の勝敗はいうまでもない。
この本に限ったことではないが、近藤誠批判はすべてがん治療とがん検診の有効性についての議論に終始している。
この点が私には納得できない。
その程度の話なら、根拠となるデータをつき合わせれば、自動的に結論が出る。
だから近藤氏に対して論戦を挑む必要などない。
わざわざ医学論を戦わせるのなら、彼の「がんもどき理論」そのものを主題とすべきなのである。
もし仮に、がんに本物のがんとがんもどきの違いがあるならば、彼の理論は画期的だ。
従来のがん治療・がん検診など完全に否定される。
逆に両者に全く違いが見られないなら、彼の今までの発言も否定されるのだから、論点はそこに絞られるべきだ。
ところが今の医学のレベルでは、がんもどきの存在を実証することも否定することも不可能なのである。
かのワインバーグですら、「がんはカオスの世界である」と嘆いたように、がんについてはわからないことが多すぎる。
近藤氏自身も、本物のがんもがんもどきも、同じ遺伝子だから両者を識別することはできないといっている。
がん細胞を正常細胞と識別できないから、免疫はがん細胞を攻撃できない。
免疫ががん細胞を早期から認識していれば、がんは成長できずにすでに消去されているはずだ。
しかし私にいわせれば、免疫はがん細胞と正常細胞を識別できている。
がん患者の患部に近い部分に触れてみると、がんを中心にしてリンパの腫れが広がっている。
この事実を見れば、明らかに免疫はがん細胞を異物だと認識していることがわかるのだ。
ところが異物だとわかっていながら攻められないでいる。
これはつまり、免疫力のうち攻撃能力だけが低下した状態なのだ。
一般的に免疫力の話をするときには、この識別能力と攻撃能力とを一緒くたに論じようとするのが誤解の元である。
攻撃能力の低下に「アシンメトリ現象」が関与している話は以前にも書いたのでここでは省くが、今重要なのは「免疫はがんを認識している」という点だ。
これは実に簡単な話で、患部周辺のリンパが腫れているかどうかを確認さえすれば、その中心にあるものががんであるかがんでないかがわかる。
すると、検査上はがんだと診断されたなかにも、がんもどきがあることを見つけられるようになる。
これで「がんもどき理論」の実証も可能になる。
だが、がんとがんもどきを識別できたとしたら、それはすでに「がんもどき理論」ではなくなってしまう。
両者の違いが識別できないから、がんと「がんもどき」なのだ。
両者の識別が可能になった時点で、それは、がんと「がんではないもの」との2つに分けられる。
この事実は、医学界にとって大変な衝撃となるだろう。
近藤氏のいう通り、従来のがん治療もがん検診も全く無効だったことがわかるだけではない。
そこからは、相当正確な誤診率まで導き出されるはずだ。
そればかりか、これまで治療で治ったとされてきたがんが、実は元々がんではなかったということもわかる。
治療中に亡くなった人たちも、がん死ではなく治療死だった可能性が否定できなくなるのだ。
すでに米国がん協会では、米国医学界ががんではないものをがんだと誤診・過剰診断してきたこと、それに付随して過剰治療してきた過ちを認めた。
そしてその数字を発表することで、がん治療のスタンダードを大きく変えようとしている。
さらにがん検診も無意味であるとして全否定する流れになっているという。
それなのに、日本の患者たちの多くがこの事実すら知らされないまま、がん検診・がん治療を受け続けているのである。
しかし日本においても、現場の医師たちは自分たちが行っているがん治療の虚しさを常々実感しているはずだ。
そしてだれもが、がん治療に少なからず疑いを持っている。
だからこそ、「自分ががんになったらがん治療など受けない」と明言する医師が多いのだ。
「自分ががん治療を受けないのは、医師に許された特権だ」と言い放つ医師までいる。
それが多くの医師の本音だとしても、患者に向かって「がんの治療はムダだ」などと教えてしまうのは、利権を共有する医師仲間への裏切りになる。
そんなことは許されるべきではない。
その思いが、近藤誠氏だけを医師仲間が執拗に攻撃し続ける理由なのだろう。
(花山 水清)
注:ここでがんといっているのは、主に固形がんのことであるが、近藤誠氏はがんの種類を細かく分けて論評しているので、詳細はぜひ彼の著書で直接確認しておいていただきたい。
『がんは治療か放置か、究極対決』近藤誠・林和彦著