メールマガジンハナヤマ通信 352号 2016/02
ふだんは医療に縁のない人にとって、医学の世界というのはいまだに象牙の塔と呼ばれていたころのような古めかしいイメージだ。
そのため、いざ自分や家族が重い病気になると、いきなり盲信型の権威主義に陥る。
その結果、みな同じように後味の悪い結末を迎えることになってしまう。
当院に来られていたある女性Aさんから聞いた話である。
Aさんの親戚で、まだ30歳になるかならないかのB子さんに、病院の検査で胃がんが見つかった。
驚いたB子さんの父親は、必死につてをたどって胃がん治療の権威といわれる病院を探し出した。
その病院で治療を開始して以来、私はB子さんの経過をAさんから聞かされていた。
病院での診断では、胃がんはまだ早期の段階で、転移も見られないという。
そして「今なら胃の3分の2を切除すれば、がんは治る」といわれた。
その医師の言葉に安心して、B子さんは手術に踏み切ったのだ。
だが私はこの話に何となく腑に落ちないものを感じた。
もちろん私はB子さん本人に会ったこともない。
したがって一般論ではあるが、後から転移が見つかることもよくある話だとだけはAさんに伝えておいた。
するとやはり、術後の早い時期にがんが全身に転移していることがわかったようだ。
そこで担当の医師は、今度は「抗がん剤でなら助かる見込みがある」とほのめかした。
そこでB子さんの父親は、「自分の家族でも同じ治療を選択するか」とたずねたところ、
その医師が深くうなずいたので、抗がん剤治療にふみきったという。
この話を聞いて、一般の人の医師に対する認識の甘さを痛感した。
医師に向かって「自分の家族ならどうするか」と訊いても、建て前的な答えしか返ってこないものなのだ。
せめて「自分が患者ならどうするか」と訊いてほしかった。
もう今から20年程前になるが、ある外科医が書いた胃がんの拡大手術を礼賛する本を読んだことがある。
その当時ですら、イギリスやオランダでは胃がんの手術でリンパ節を大きく廓清(かくせい)しても、生存率は向上しないことがわかっていた。
その上、拡大手術を行うと、術後の患者の生活の質(QOL)は、著しく損なわれてしまう。
しかしそのころの日本では、まだどこまで広範囲にリンパ節を廓清するかが胃がん手術における外科医の腕の見せどころだったのだ。
ところがある日、この本の著者に胃がんが見つかった。
すると、あれほど勧めていた拡大手術を自分は受けなかったのである。
そして「なぜ、患者に行ったのと同じ手術を受けないのか」という批判に対して、「医師の特権として、この程度のわがままは許されるはずだ」と書いていた。
ここでも、医師と一般人との感覚の違いを思い知らされたのだった。
さて、B子さんの話にもどろう。
彼女は医師にいわれるままに、さまざまな抗がん剤治療を受けた。
しかし結局は何の効果もなかった。
その挙げ句、担当の医師は「やるだけのことはすべてやった」といって、遠回しに転院を示唆しただけで、それ以後は彼女の病室には全く顔を見せなくなったという。
仕方なくB子さんは自宅で療養し、がんの発見から2年の闘病を経て32歳の若さで亡くなったのだった。
これはあくまでもB子さんの親戚であるAさんから聴いた話なので、どこまで正確かはわからない。
しかし内容そのものは、がん治療の周辺では非常に一般的な話である。
B子さんは、がん治療の最高権威の医師が「助かる」と断言したのに、なぜ助からなかったのか。
しかも早期のがんだと診断されていたのに、おかしな話ではないか。
胃がんは元々日本人に多いがんであった。
統計を見てみると1955年以降、胃がんの年齢調整死亡率は下がり続け、2000年前後で男女ともに他のがんの死亡率と大差はなくなった。
他のがんの死亡率は上がっているのに、なぜ胃がんだけが下がり続けたのだろうか。
このデータだけを見ると、胃がんの早期発見・早期治療が功を奏したといってもよさそうである。
ところがここで目を転じてアメリカやイギリスの統計と比較してみると、日本だけが異常に胃がんの死亡率が高いままなのだ。
日本は、英米よりも胃がん検診を徹底してきたはずである。
しかし検診で早期発見しても、肝心の死亡率は他国と比べて自慢できるような数字ではない。
しかもなぜ胃がんだけ、死亡率が突出しているのか。
日本人には胃がんが多かったから、他の国よりも胃がん手術などの治療レベルは高いと喧伝していたのに、これではつじつまが合わない。
要するに、日本の胃がんに対する標準治療が、世界の基準とは違っているということなのだ。
そしてこれまで早期発見・早期治療という名のもとに行ってきた過剰診断・過剰治療こそが、日本人の胃がんの死亡率を引き上げているのではないか。
そう考えれば、早期の胃がんだったはずの30代のB子さんが、たった2年で亡くなってしまった理由も納得できる。
もちろん本人や家族にとっては、今さら理由がわかっても納得のいかない話である。
この問題は、国内の医師からも指摘され始めているから、そのうち徹底的に検証されることになるだろう。
医学の世界では、それまでの常識がある日突然に非常識に変わることは珍しくない。
患者にとっては、タイミング次第で逆につらい結果にもなる。
それが医学の進歩だから仕方ないのだろうが、できることならみなが進歩の先端で医療を受けられるようにと願うばかりである。
(花山 水清)