メールマガジン月刊ハナヤマ通信 Vol.323 2013/09
今まで食の問題は、全て科学的視点で解決しようとしてきた。
ところが、食の本質を考えようとするとき、科学は役に立たない。
そこで今回は観念論的な話になる。
私は子供の頃から、魚釣りが好きだった。
大人になってからも、季節の魚を求めて、遠くまで電車を乗り継いで釣行していた。
夏の終わりの今なら、そろそろイナダが釣れる頃だ。
ところが、福島第一原発の爆発事故後は、その大好きな釣りにもほとんど行くことはなくなった。
もちろん、海の放射能汚染が激しいためである。
NPO法人として魚の放射線量を計っている知人の話では、魚の線量は政府発表とは一桁は違っているらしい。
もちろん、私がこの目で確認したわけではないので真実はわからない。
最近(2013年8月)では、300トンもの高濃度汚染水が、タンクから漏れていたことを東京電力が認めた。
これも結果的には激しい海洋汚染につながる。
そのため、世界の非難の目が日本に注がれているのだ。
そのような状況で、食べられるかどうかもわからない魚を釣っても仕方がない。
食べもしないのに釣るのは、ただの殺生でしかない。
スポーツや読書、旅行などといった趣味と違って、釣りには生き物を殺して食べるという残酷な面がある。
釣り上げたばかりの魚は、みな独特の美しさを持っている。
その命の輝きに釣り人は感動する。
ところがその魚も死んだ途端、一瞬にして色あせた物体になってしまう。
そのたびごとに心の奥で痛みを感じる。
釣りをしない人のなかには、釣った魚を殺すのはかわいそうだという人がいる。
しかし自分で殺さなくても、誰かが殺した魚を食べているのなら、残酷という意味では同罪である。
これは魚だけの話ではない。
人間は食べなければ生きられない。
食べるとは、動物や植物など他の生き物の命を奪うことである。
つまり食とは、「殺す」と「生きる」が一体となった行為なのだ。
このことが、食の最大の本質だろう。
古くから、人間は食を得るたびに痛みを感じてきたはずだ。
ところが現代人は、食によって心に痛みを感じることは少ない。
自分で直接、他の生き物の命を奪う機会がないからだ。
たまに、生きた魚介類をお湯に投げ込むのでも、そこにはちょっとした勇気がいる。
しかしそのような殺生も、食べるため、生きるためという名目があることで、意識のうえでは相殺される。
昔なら、鶏ぐらいは自分の家でつぶして食べることが多かった。
幼児期にその場面を目にしたせいで鶏肉嫌いになる人も少なからずいた。
私も子供の頃に父が鶏をさばくのを見てから、ごく最近まで鶏肉が食べられなかった。
ましてこれがわれわれと同じ哺乳類の牛や豚となると、なおさら印象は強烈だ。
それでも、たいていの人は平気な顔で肉という名の動物の死体を食べている。
「うちの子は肉ばかり食べて、ちっとも野菜を食べないから困る」などという場合は、その子を屠殺場に見学にでも連れて行くとよいだろう。
人間はこの罪悪感を解消するために神の存在を求めたのかもしれない。
旧約聖書では、家畜を殺して食べることが神から許されている。
だから家畜を殺しても罪にならないのだ。
さらにいくつかの食のタブーを設けることで、より罪の意識は軽くなる。
またほとんどの古い宗教では、祭壇を設け、羊や牛などの動物を神への供物として捧げる。
これはつまり、神への犠牲を共食することで、人間の罪を軽くしているのである。
生き物を殺すことに対する罪悪感の解消では、アイヌ民族はさらに高度な思考をしていた。
アイヌのイオマンテ(熊送り)の儀式は、歌とともに有名になったので、ご存じの方も多いだろう。
アイヌの考え方では、神が熊の姿を借りて、あの世からおいしい熊の肉と毛皮をお土産に持って人間界にやってくる。
アイヌたちは、それらの土産を受け取った後、今度はお返しに熊(神)にイナウなどの土産を持たせて、丁重にあの世へと送り返すのだ。
これが、イオマンテの儀式である。
あの世に帰った神は、人間界で立派なもてなしを受けたことを、仲間達に自慢する。
すると翌年からは他の神々も、熊の姿で人間界に行こうする。
そのため、翌年は熊がよく獲れると信じられているのだ。
アイヌ研究で有名なバチェラーは、この熊送りの儀式について、あんなに善良なアイヌ達がなぜこんな残酷な儀式を行うのか理解できないと記している。
彼は宣教師なので、キリスト教の神が許した家畜以外の動物を殺す儀式は残酷だと感じられたのだろう。
宗教や時代が違えば、理解できないことはたくさんある。
縄文時代の貝塚にしても、現代人の目から見れば、ただのゴミ捨て場だ。
しかしアイヌの熊送り同様、縄文人は貝塚で、貝送りの儀式をしていたのかもしれない。
実は、アイヌ民族や縄文人の生命感では、全ての生命は循環し続けるのである。
そこには、われわれが考えるところの「死」という認識はない。
だから、他の生き物を殺して食べることにも罪悪感が生じにくい。
彼らにとって食とは、人間に与えられたあの世からの土産なのだから、罪悪感どころか、喜びだけが満ちている。
この喜びこそが、食の本来の姿であろう。
このような視点から、現代の食の有様を振り返ると、空虚で薄っぺらい世界に見えてくる。
グルメぶってウマイだのマズイだのといってみたり、健康食品を買いあさっては、体にいいだの悪いだの、太るだの痩せるだのといいつのるのは、食の本質からかけ離れている。
それだけ豊かな時代なのだといえばそれまでだが、果たして現代に生きるわれわれに、アイヌや縄文人ほどの食の喜びがあるだろうか。
桁違いに豊かであっても、心のなかは、いい知れぬ不安に支配されている人が多いのではないか。
それこそが、食の本質から離れ過ぎた者が行き着く場所なのかもしれない。
(花山 水清)
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