メールマガジン月刊ハナヤマ通信 320号 2013/06
私は、テレビを見ない生活になってから20年ほどになる。
そのため、世の中の流行にはかなり疎い。
しかし、私は、流行の多くはマスコミを通じた洗脳であり、単に商品を売り込むための手段だと思っている。
今、何が流行っているのかを知らなければ、多くの人の話題にもついていけない。
だがついて行かなくても、どうせ皆すぐに忘れてしまうものばかりだろう。
そんな私がテレビの画面に釘付けになった。
2011年3月、福島原発が爆発したときだ。
この世であってはならないことが起きたのだ。
あらゆる宗教では、それぞれの終末論が語られる。
そして、その脅威の筆頭には、常に核戦争や原発の爆発などが挙げられる。
誰もが脅威とは思っていても、まさか日本では起こらないと思っていたはずだ。
まして、自分が被害者になるとは誰も思わなかっただろう。
災害の被害者になるのは、常にテレビの向こうに映し出された人たちであって、テレビのこちらで見ている自分とは関係がない。
だから、テレビでとんでもなく悲惨な光景を山ほど見ても、すぐに忘れてしまうのだ。
ところがあのとき、日本人の全てが大なり小なり被害者となり、日本という国が世界に対しては加害者となったのだ。
多くの人にはその認識が全くないのに、現実には4機もの原発が爆発してしまったのだ。
人類は歴史上、チェルノブイリ以外にこれほどの事故を経験していない。
当然、チェルノブイリと同等以上の被害が出ることは誰でも予想できたはずだが、意外にそうでもない。
そしてテレビからの情報は、ことごとく安全であることの洗脳作業に終始し、正しい情報など全く出てこない。
だがこの時点で、日ごろからテレビ漬けの人々には十分に洗脳が入る。
あのとき当誌では、数回にわたって原発に対する、ごく現実的な内容をお伝えした。
すると読者数がぐっと減ったのだ。
原発が目の前で爆発しても、まだ原発は安全で必要なものだと刷り込まれている人が大勢いる。
テレビの前にさえいれば、自分の安全だけは確保されている。
そう信じさせてくれるから都合がよいのだ。
何よりも、私自身の認識も甘かった。
放射線の影響は、福島原発の爆発事故後に始まったことではなかったのである。
米ソ核開発実験以来、すでに十分に海洋の核汚染は進んでいたのだ。
これは海の向こうの話ではない。
現実の海には向こうもこちらもない。
しかし多くの人の頭の中にはいつもテレビがあって、海ですら虚と実の世界に区切られていたのである。
もちろんそこに棲む魚たちには国境などない。
その魚たちが、魚食文化の日本人に最も深刻な影響を与えるのだ。
だが、爆発以前の魚の放射線量など、誰もデータを取っていなかった。
事故の時ですら、あえて計ろうとしなかったのだから、今後もわからないだろう。
人は自分にとって都合の悪いことからは目をそむける習性がある。
当誌で連載していた「健康21ヶ条」にしても、原発事故のあとでは全く意味をなさなくなった。
だから、「健康21ヶ条」はサイトから削除した。
そして新たに健康というものについて、定義し直す必要を感じている。
だがこれは決して、健康を実現するためのものではない。
現実世界では、将来の健康を約束してくれるものなど一つもない。
健康を約束するのは、原発は絶対に安全であると約束するのと同じことだからだ。
逆に将来の不健康を確約するものなら、山ほど挙げられる。
放射線被曝はその最たるものだ。
この当たり前の話が、全く通じなくなってしまったのが今の日本なのである。
平和で安全で健康長寿の国、日本。
それが幻想だとわかるまで、日本では健康の情報は娯楽であり、消費の対象であった。
今、病気で困っていなければ、健康情報はその一瞬だけ楽しませてくれればよかった。
そのためには次々に新しい情報が必要だ。
いまどき、ぶらさがり健康器やニガリを欲しがる人はいない。
情報は常に新しいものでなければいけないのだ。
そこに実用性や効果など、誰も求めてはいない。
健康というのは幸福と似ていることに気がつく。
不幸のどん底を経験した人でなければ、ささやかな日常に幸福を感じ取ることはできない。
大病で苦しんだ人でなければ、健康のありがたさをかみしめることもできないのだ。
やはりわれわれは、よほどの体験をしなければ、頭の中のテレビを消し去ることはできない。
私は20年経っても、まだ頭の中にテレビがついたままになっていたのである。
それを、今回の原発事故報道で知った。
そして、これから健康の概念を見直すことで、テレビを消し去る作業に入ろうと思っている。
(花山 水清)
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